下町芸術祭

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2019/11/02

下町芸術大学 中西雄二編「新長田民族文化論 エスニシティ基礎講座-奄美編-」

9月13日、神戸奄美会館にて第5回下町芸術大学が開講されました。今回は、東海大学の文学部講師であり地理学者の中西雄二さんにお越しいただき、奄美文化、そして神戸と奄美の関係の歴史についてお話しいただきました。

神戸と奄美の関係の歴史

そもそも「奄美」と一言に言っても、奄美が意味するのは奄美大島だけではなくその周辺の島々も含まれており、実はかなり広い範囲を指しているそう。また、島同士だけでなく、島の中の地域、集落ごとでも歴史や文化、言葉の特徴までも異なると中西さんは語ります。
神戸の新長田のエリアには奄美にルーツを持つ人々が今もたくさんいます。そんな奄美という地域が神戸と関係が深い理由は、徳之島出身者が同郷団体を作ったことが発端であると中西先生は言います。特にこの長田の地域には1984年で約800世帯もの徳之島出身者が住んでいたという記録が残っています。一方で東灘など、神戸の東側には沖永良部島出身者が多く住んでおり、「神戸には奄美の人が多く住んでいる」といっても、地域ごとに出身島が異なっているのです。そしてその地域は工場と住宅地が混在している場所に集中しており、これには日本の近代工業の発展の中で必要とされた大量の労働者を、神戸が吸引していたという歴史的な背景があります。

しかし、なぜ奄美の人々だったのか?これについて中西さんは次のように語ります。奄美はサトウキビの栽培が盛んで、砂糖の生産を中心としたモノカルチャー経済でした。しかし奄美には毎年台風が来るので、自然災害の影響はサトウキビ栽培に大きな打撃を与えます。さらに砂糖の出荷額は国際的に決定される価格に影響されるため、たとえ奄美で豊作だったとしても国際価格が低ければ利益は微々たるものになってしまうのです。こうした不安定な奄美の経済は、1920年代に起こったソテツ地獄と呼ばれる砂糖の国際価格の暴落による大飢饉によって危機を迎えます。奄美では苦しい経済状況を迎える一方で、神戸や東京、大阪といった大都市では工業化が著しく進んでおり、労働力不足を抱えていました。こうして大都市での労働力を補うため、経済苦を抱えていた奄美の人々は移り住んでいったそうです。また経済的要因に加え、奄美から神戸と大阪への航路は東京行きよりも整備されていたことも神戸に移住者が増えた要因でもあるそう。やがて新長田のエリアはこうした奄美の人々をはじめとする労働者の住宅地として都市計画の中で整備が進められていったと中西先生はお話されました。

日常生活における言葉の壁
神戸に住む奄美の人々にとって、日常生活の中で言葉の違いは非常に大きなものだったと中西さんは語ります。島の言葉で気兼ねなく話せるようにと1931年に神戸奄美会が発足されました。奄美の人々は「規律正しい労働者」になることで、他者化され、差別されることを避けようとしました。彼らは島の歌や踊りを神戸の人に見られないようにして、島の文化を隠したそうです。一般的に移民集団は、自発的あるいは排除の結果として空間的に固まって生活することで団結しますが、奄美の人々の場合は戦後に生活の場として長屋が提供された場所に奄美連盟を発足させました。

分離統治からの奄美の返還
沖縄と奄美は戦後米軍によって分離統治され、「非日本人」と位置付けられ、法的な地位が不安定となりました。奄美の人々は本土との自由な渡航を制限され、神戸に住む奄美の人々の中には密航する人もいたそうです。奄美は沖縄に比べてあまり米軍基地が置かれていなかったため、米軍に対して日本への返還を求める抵抗運動が行われたそう。最終的に奄美は1953年に沖縄よりも先に返還され、渡航は自由化し、さらに多くの奄美の人々が神戸に移住するようになりました。奄美の人々は戦前から戦後にかけて政治に翻弄され激動の時代を生き抜いたのだと中西さんは語ります。

沖縄と奄美の関係性
沖縄と奄美は似ているようで微妙な関係性を持っていることについてもお話しいただきました。政治的な面では、日本への返還を求める復帰運動の際、奄美は戦前鹿児島県だったことから「我々は沖縄ではない」と主張していたそうですが、近年では特に文化的な面で奄美と沖縄は非常に密接した関わりがあるといいます。例えば現在では奄美のお酒といえば黒糖焼酎ですが、これは戦後に特産品として作られたものであり、かつては沖縄の泡盛の方がよく飲まれていました。現在奄美は南国文化の発信拠点とされており、沖縄のエイサーと呼ばれる踊りも奄美で盛んに行われているそうです。

神戸での奄美文化の継承
神戸奄美会館は1990年代に多くの人からの寄付によって建てられました。同郷団体の歌や踊りの練習、趣味などの活動拠点として使用されていますが、高齢化などの影響から昔に比べて利用が激減していると中西さんは言います。
その一方で子どもも参加できる運動会や盆踊り、夏祭りといったイベントを行うことで未来にも奄美文化を伝えていこうとする動きもあります。こうしたイベントを通して、同郷者だけでなくそれ以外の人を含む人的ネットワークを構築し、新しい人間関係を作ることができると中西さんは語ります。また神戸ではラジオに奄美専門チャンネルも存在し、長田の中の多様性の1つとして捉えられています。

まとめ
戦前、戦後を通して歴史に翻弄された奄美の人々は、遠く離れたこの神戸・長田という場所でコミュニティを築いてきました。「非日本人」とされ、言葉の壁や文化の違いから「よそ者」として扱われ“マイノリティ”として生きてきた奄美の人々は、今や長田の中の1つのエスニシティとなっていると中西さんは言います。近年では神戸に住む奄美の人々の高齢化などからコミュニティの希薄化が進んでいることも事実ですが、娯楽としての「ふるさと」表象を取り入れることが神戸奄美会館をはじめとする奄美文化を継承する活動の一部にもなっています。また結婚などを通して、奄美出身者以外の人々も奄美の人々のコミュニティに介入し新たな人間関係を構築していく動きも見られます。一方で今もなお、自らの出身を明かしたくない奄美の人々もいることは事実であり、こうした状況を生んでいるのは日本という社会なのか神戸という地域性なのかわからないけれど私たちは考える必要があるとお話しいただき、講義は終了しました。

質疑応答
講義終了後には、質疑応答が行われました。その一部をご紹介します。
Q 奄美の島言葉の継承の現状は?
世代を超えての継承は非常に難しいですが、奄美の文化を発信していく動きは見られます。例えば、徳之島では島言葉でラジオ体操が行われています。

Q 奄美の人は暑さに強いから溶鉱炉の仕事をやっていたって本当?
実際によく言われていた話ですが、あくまでもレトリックで単純に安価な労働力として底辺労働をさせるための口実として使われていたにすぎませんでした。長田あたりでは溶接に関わっていた人が多かったと言われています。

終わりに
長田には「多様性のまち」のイメージがありましたが、その背景には歴史の流れや国際的な事情が関係しているのだなと改めて感じました。奄美の人々が“マイノリティ”として神戸で生きてきた中で感じた孤独や疎外感や、自らの文化的アイデンティティを隠して生活のために生き抜かなければならなかったことを知り、「他者化」の意識はきっと誰の中にも潜んでいると感じました。それでも私たちはその違いを認め、尊重することでそれらを乗り越えていくのだと考えさせられました。

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